古老の話では、明治の中頃までは、支部毎に山羊の放牧をしたらしい。お金を出す人あり、山羊を出す人ありで組合をつくり、原野に放ったらしい。山羊当番として毎日二人ずつ原野に出かけ、夕方まで留っていたようだ。しかしだ、この山羊当番の責任たるや大きいものであった。すなわちあちこちの支部の山羊がチャンポンにならないように別々に耳印をつけた。耳の切り方によってはっきりしたわけだ。放牧原野は、1.高穴から2.ウプドゥーの間だったらしい。支部毎に番小屋をつくり、風雨の日はこちらで宿ったそうな。この当番たちの仕事はほんとに次のようなことだった。耕作地に上って作物を荒さないように、別支部の縄ばりに入り、国境衝突が起きないように、泥棒にとられないように、子山羊が生れた時は産婆役になり印をつけ、他人からの注文のときは、一緒に歩かない奴を担いで村まで来た苦労、台風の時は、アダン林の中に追い込み避難させ、台風にもまれて弱っている奴は火に当てて暖をとらせ、産後の調子の悪い親やぎは八方手を尽し、しらみのわいた奴は、海水で洗い、虫を喰ってあわをふいている奴は、お医者になって、かねて用意の味噌をおしこんで治し、それでも、手のつけようのない奴は、死刑宣告をして食用に供し、雄のタネの悪い奴は優勢保護法によって、去勢しておかずにし、耳の無印は親をさがして親と同じ印にし、アダンの気根を切ってきて、山羊捕り網をこさえ、番小屋の修理から何やらかんやらで、あれ、そうねぇ、十五ケ条の御誓文と言っていいのかどうか。しかし何といっても野山羊の足の早い奴らを生捕りにするのが大変な苦労で、ウプドゥーの方の支部は、海岸の岩なみから追いおとし、リーフの中からさらに岩なみの方に追い上げ、岩なみの谷間に追いこんだら絶体絶命、難なく捕えることが出来たらしい。なかでも追いこんだら一匹も逃がさず、計算通り捕えられる好条件の所があった。こちらをビンダビーキと言って、今日までその名が残っている。 しかしだ、「こんなにまで苦労せねばならないか。」と当番たちはたまにはため息をつくときもあったらしいが、苦労を重ねている彼等にとって、こよなき楽しみは、旧一月と八月の祝日の「山羊繁昌祈願祭」であった。この日こそ、若者たちは早朝から牧場に出かけ、雄のでっかい奴を四、五頭捕えてきて料理係でおおいそがし。昔から山羊祭(ぴんだうがん)の時の香炉は、ふだんは山羊どもの遊び場にしかならないところを、この日に限っては朝から掃除して浄められ、砂浜の中に山羊や、人の足跡のないところから清らかな砂を持ってきて、清めた小岩の上には、急ごしらえのコーロが出来、ここが牧場の神様やその他の天神地祀が降臨なさる「依代」ヨリシロになる。やがて三、四時頃になると先輩たちが子どもたちをつれて出て来る。たまに肉のご馳走にありつけるというので、子どもたちは、はしゃぎにはしゃぎ喜び、先輩の方々は、まず海水の中で身をきよめる。なべの周りにすすだらけになっていた連中まで、まねをして身を清める。間もなくコーロには線香、お塩が供えられ、山羊のからたき料理と吸物が供えられる。長年の方はヤオヨロズの神たちに何やかんやと山羊の繁昌を祈願し合掌する。後方は坐して合掌しながらも、長い首を出して、酒びんと茶わん酒と御馳走に目を輝かし、のどをゴクン、ゴグンと鳴らしながら、「アーレ、長いお祈りだなぁ。」と本人の後姿をながめながらうらめしそうなまなざしをしたらしい。そのうち号令一下、「今度は東方に向って下さい。」との大声に皆即座に東方に向く。相も変らずまた何千メートルかの長い祈言葉。両足はしびれて動かせないほどにたまらない。そのうち、エヘーンとせきばらい一発、いつの間にか終了していた。待ちわびた連中は、やれやれと芝生の広場に圓座をはり、お酒の容器は次々と空っぽになって横転。山羊汁はのどにとどくまで平らげて、歌やおどりで賑わい、汚れたフンドシは地べったから引きずりながら、タラマユーの歌は天を衝き、三々、五々我が家へ帰ったようだ。その後というものは、北極星のように輝いて大きな目をした山猫どもが、山羊の遺骨拾集のために現場にたかっていたようです。こんな慰労会が毎年繰り返されていたが、明治の終り頃には一時中止になった。しかしあの頃は経済的にも恵まれなかった時代だったので、山羊当番に苦労した報いとして各戸のお茶代は、共産山羊代でようやく間に合っていたらしいよ。(かわいそうにね) |